稲垣慎也の斬りない話
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なぜ、アピアで10年間歌い続けてきてしまったのか? 言い換えれば、一人でやれる事だからなのかもしれません。それは、僕がとても独りでいることが得意な人間だからです。
昔、親戚の伯母さんにある日の別れ際に「慎也がいないとさびしいな。」といわれたけど、そのときから芽生えた、ある嫌悪感のようなもの。「さびしい」とはいったい何事であろうか。なんと情けないことであろうか。一人とはとても素晴らしいことなのだと保育園児だったころから僕は知っていたことなのに。
保母さんが「慎也くん、なに一人でポケットしているの?一緒に遊びましょう!」と言う。僕はすっかりポケットに手を突っ込んでたたずんでいるからだと思い込んでしまった。 しかし、気がのらないことを無理矢理する必要はなかろう。永遠に放っておくがよろしかろう。
文部科学省的な教育とは孤独な思索よりも、協調性を養い、集団行動が取れる人間に育てることのほうが大事であるかも知れぬが。
一人ならば、家のオーディオを独り占めできる。好きなレコードを好きなだけ聴くことができる。静かに本を読むことができる。考え込むことができる。楽器の練習が好きなだけできる。
要は「自由」だということですね。
しかしながら、小学生だったころの自分には自由とは遠い概念であって、それほど一人の素晴らしさなんて考えたことは無かったのです。一人の素晴らしさについて考えるということは、同時に一人であることの「暗部」にも思いをめぐらさなくてはならないからです。その「暗部」に出会うのは中学生になってからです。
僕は「さびしい」という言葉を覚えたときから、この言葉の意味と戦っているときもあり、無視しているときもあり、背後から「さびしさ」が自分の作詞ノートを覗き見しているようなときもあり、「果たして僕はさびしいのだろうか?」「さびしいという言葉が生まれたからさびしいのではないか?」「本当のさびしさに出会えたことが無いからさびしさを馬鹿にしているのではないか?」「本当にさびしいときに備えて避難訓練したほうがいいのではないか?」などなど、さびしさにまつわるさまざまなことを考えに考えても、やはり孤独の素晴らしさ、自由さの方が勝るように思えてしまう二十数年でした。
一人でやり続けることは、バンドを組むより簡単です。
僕は中学生のときにバンドを組んでからというもの、十数年バンドを組まずに、一人できてしまいました。
バンドはみんなの情熱の均衡が保たれているときはいいのですが、真剣に音楽をやっている人と、趣味で適当に楽しみたい人がやって、うまくいくわけないです。
音楽的に自立していれば、高次な人間関係の中で、バンドが組めるかもしれません。一人でも、表現を持っている。個としてのパフォーマンスを持っている人間同士が、聴かせるアンサンブルは素晴らしい。そういうバンドならいつか組んでみたい(気もする)。
僕は、究極的にいえばもう誰にも期待しないでいたい。自分自身に期待したい。自分自身が自分自身を納得させられるような、芸術をやってみたい。「芸術」なんていうと、大仰になりますが、この一回性の人生を生きるのにつかう言葉に遠慮はいらないと思う。「芸術」は教科書や美術館にあるわけじゃない。憧れるべき対象でもないんじゃないか?と最近思う。石ころのようなものだと蹴飛ばして、たかがこんなものかと諦めてこそなんじゃないかと。僕思う。
期待しないかわりに、人の期待に応えるのももう止める。
そこには、人の期待に応えないと生きてはいけないのではないかという、農耕民族以来の、甘えを感じる。
しかし、人が一人では生きていけないということは、決してないと。僕思う。そのことで肩に力が入っている人は、大丈夫なので安心してください。
僕が表現するとき、聞き手に媚びないようにしたい。表現はあくまで無数の個に発信されるべきと。僕思う。
その一筋の希望を芸術は目指すべきと思う。そのためには僕は一人でステージに立たなければと思う。一個人としてステージに立つ。芸術は無数の個を目指す。
しかし、媚びては砂上の楼閣である。
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「そして僕はその庭へ帰っていく」
八束 徹
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2nd Album
10曲入 ¥1.000(tax in)
あの空を解き放とう.ママのバラッド.夜の庭.ウェディング デイ.光が.彼をつれていかないで.恋人の丘から.フィリカ.明日の歌.雪国のレディ. |
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昔々、ハーメルンの笛吹きについていった少年は、やがて自分の役割を見つけて、131人の群れからはぐれた。幼い日の経験から、彼は自分ひとりでできることだけをしようとして、学び、強くなり、人を愛することさえ覚えなかった。孤独が彼を包み込んでも、かわいた心で女の肌に触れても、虚しさで言葉を組み立てても、裏切っても裏切られても、涙ひとつ落とさない自分を、暗い部屋で足を抱えて、ただ、かばい続けた。休息の場所は見当たらず、視力が欠けてくると目的もぼやけて、そうとはしらず掬い上げてくれた恋人を失うと、押さえつけてきた弱さが溢れ出し、今度は自分から誰かに先導されたがるようになった。・・・・・・・
と、そんな話をどこかで読んだのか、いや、それとも夢で見たんだっけ。
どれだけ心が凍っても、虚しさに占拠されても、やっぱり触れたくてまた歌を産む。人の寂しさを汲んでやれないから、自分のことばかり歌う。過去は常に後ろに折り畳まれていくから、届かない明日をめくり続ける。誰も待っていてくれなくて寂しい思いをしても(事実以上のものはどこにもないけれど)見失わずにすんだんだよ、あなたとあなたと、あなたのおかげで。与えられた役割のある場所ではなく、自分自身の在るべき場所を。
その後、彼はどうしたんだっけ。どこへ帰っていったのかな。夢は醒めてしまったから、もう知る由もない。彼の心の深い所には小さな庭があって、覗くとそこには光が射していた。そう、僕はそこへ帰るんだ。
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