発行・ライブハウス/渋谷アピア
アコースティック情報誌 Vol.113 2006.8月号
「愛を乞うもの」

 私達はほんとうに分かり合えるのだろうか?ほんの短い間の出来事だった。その瞬間、その問いを感じざるをえないことがあった。
 私は山谷にあるマザーテレサのブラザーの修道会に毎週土曜ボランティアをしている。山谷についての紹介などはまたの機会に書くとして、今日はその施設で起きたことを書きます。
 私達はその施設でカレーを作り、隅田川の白髭橋近くの河岸で500〜650人くらいにカレーを配る。そのカレーを作り上げ、車に乗せた後に、ボランティアとブラザーで少しの祈りの場を持ってから隅田川に向かう。
 その日、私達がいつものように歌い始めると、その歌声を聞きつけた一人の酔った叔父さんが私達の歌っている歌とは違う「いつくしみふかき」を大声で歌いながら、施設のなかに入ってきた。ほんの何秒かの間、誰もその叔父さんに関わることなく、無視をしていた。施設内に緊張した空気が一瞬にして張り詰めた。そこにいる誰もが自分達の歌を邪魔されることをイヤに思ったことだろう。そして、その叔父さんに怒りの感情を持つと同時に見下していただろう。
 彼が入ってきたドア付近にいた年配のボランティアが怒りの顔を浮かべ、彼を部屋から出すように追い払った。しかし、彼はまた歌いながら入ってきたノ。
 その遣り取りを観ながら、私は彼が感じているものを私も感じようとしていた。そして、とても胸が苦しくなった。それはこうしたものから生まれてきたものだろう。
 彼の行動は明らかに問題行動ではあるが、どうしてそのような行動を取るのかとは誰も考えられない空間から来る拒絶のメッセージを受けていた。ほんの数秒間だが、彼は彼の存在を否定された。それも自分自身がケアを受けているこんなにも多く人達から、自分の存在を拒否される痛みはどんなものなのだろうノ?それは「あなたみたいな酔っぱらいで野蛮な人は私達の仲間には絶対に入れない」 「どうしてあなたは邪魔をするの!早く出ていって!」 決して口にはしない影の声が緊張した空気を作り出していた。誰もが自分達のことしか考えていないことに気が付かない。その瞬間、その場所にまったく愛のない空間を自分達が作り出していた。
 彼のほんとうにしたかったことは何なのだろうか、そう相手を思いやる心を持てた人はあったのだろうか?彼は一緒に歌いたかっただけのこと、仲間に入りたかっただけのこと、そして、何よりも寂しく孤独であり、それゆえに自分の存在を認めてほしかったことではないのか?
知らない間に自分達の正当性を意識しないところで主張するものは正義を楯に戦うものと同じような過ちを瞬時として行い、それ以上に相手を傷付け、自分達の意識のなかに今まで以上に彼に対して悪のイメージを勝手に作り増ししてしまう。そして、そのことに気付けない。
 
 黄金律「人からして欲しいと思うことのすべてを人々にせよ」{マタイ福音書7章12節}が自分本意、自分主体、自己防衛、思い込み、決めつけ、怒りの感情のために逆になっている。「わたしがこうしたいから、あなたもそうしなさい」 まず相手を思いやれていない。相手の心を大切にしていない。悪者は悪者であるの先入観と自分達は悪くない正しいことをしているとしか考えることが出来ないものの驕りとで、そうした行動からしか愛を求めることの表現できない貧しき弱き孤独なものに愛の手の差し延べるどころか、「あなたは悪者。邪魔者」そのレッテルを自分自身の意識のうちに無意識に強化し貼りつづけてしまう。相当なことがない限り、相手を許すことなどしないし出来ない。
 私はその瞬間にこうしたことを感じていたノ。胸が閉めつけられる思いだったノ。
 彼がもう一度歌いながら入ってきたところで、私は彼に近づいて笑顔で「どうしたの?」と声をかけた。私は一緒に歌うつもりでいた。彼は私の顔をじっと見ると「いつくしみふかき」を歌うのを止めた。すると、一つの仮面が瞬時に降り落ちたように表情を変えた。それは愛を乞う弱きものの純粋さがにじみ溢れていた。明るい喜びの表情ではなく、とても深いものだった。彼は彼のなかで迷子になっていた彼自身を私のなかに観付けたのかもしれない。そして、目を真っ赤にして涙をぼろぼろと流し始めた。私は彼の背中をさすりながら微笑んだ。彼は「泣いてなんかいない」と言いながらも涙を流し続けた。私は何も言わず、ただうなずくだけだった。その涙は床に何粒も落ちた。
 
 彼の涙はどこから来たものだろうかノ?愛か、感謝か、分かち合いか、それよりも、悪か,憎しみか、恨みかノ。どこからだろうノ?愛からも悪からも、その涙が来たのかもしれない。そして、もしかすると、その涙は私の内側から流れ出た涙のようにも思えた。ただはっきりと判ったのは彼の気が変わったことだった。渇きがその涙によってうるおったようだった。彼はただ受け入れて欲しかっただけだった。ありのままを認めて欲しかっただけだった。そして、拒絶否定されたくはなかった。
 彼の行動は退行にすぎなく、その問題行動の是非だけに心を奪われてしまえば、その先にある、その奥底にあるものを観ようとは思えない。分かり合うことは不可能にどんどん近くなるのだろう。
 彼は「判ったよノ」そう言って外に出た。おもてにあるマリアにふれて、そして、手を合わせて祈っていた。誰にも示さず、現さず、他を感じずに祈る姿は神と彼とを結ぶ一本の線がしっかりと繋がっているような美しいものを感じ見せた。誰も彼のその美しい祈る姿を見ることはなかったろう。なぜなら、「臭いものに蓋」と一瞬でも早く自分の視界から彼を追い出すことが自分の心の平安に繋がると考えているからだろう。そして、何より相手よりも自分達の祈りをすることが大切だと気付かずに思い込んでいるからかもしれない。気付けない逆の黄金律により、悲しい歴史はこうした些細なところからも生まれて来てしまうのだろう。
 
 人間が弱きものであっていい。弱きものであると謙虚な思いを素直に持てることがいい。失敗や過ちを犯しても、何度でも立ち戻り、何度でも正し、真剣に傷付くことを恐れず、あらゆることに揺られながらも、ゆっくりと自分のあるがままを受け容れていくこと、勇気を持って行なうことが大切だと思う。それはほんとうに苦しいものであろうが、しかし、長い目で見れば、強くより良い人生になるために働きかけるだろうし、柔軟な強さを身につけるだろう。そして、自分が自分を育て直すことと成り得るだろう。
 
 私にとって、部屋の中にいる人達も、外に出ていった彼も、友人である。ここに書いたことは実際に起こったこと以外はすべて私自身の仮説である、ということは私の影でもある。その影が私は教育してくれる大切なものでもある。そして、彼等と彼のなかにあるものは、私のなかにもある。私達はそうして繋がっている。だから、愛す。



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