ホーミータイツ
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ホーミータイツです。今回は僕等の曲「じゃんけん」にちなみ、グーチョキパーを出発点に各自文章を書いてみました。好みや視点の違う3人をいつもの「音楽」ではなく「じゃんけん」の中でミックス。何が出るかはお楽しみ。では始めましょう。
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キクチの「グー」
握りこぶしを眺めてみる。手は表現の出入り口だ。ペンを持ち詞を書く。ギターを爪弾いて作曲する。女性を愛でる。風の流れや太陽の暖かさを文字通り受け止める。色んな情報が手の平を介して行き来する。握り拳は己の表現を封じ外からの表現を門前払いにする。グーが怒りや悔しさを連想させるのはその為かもしれない。僕がこれまで一番怒りを感じたのは幼稚園の頃、お気に入りの丸い形をしたドングリを親友のヒロ君にパクられた時だった。怒りに任せ僕は彼のロッカーの荷物と上履きを焼却炉に放り込んでやった。後でとんでもない濡れ衣だと判明するまで僕の拳は固く握られたままだった。
彼にはこの場を借りて謝りたい。大らかでいい奴だった。
一方良いグーもある。ガッツポーズだ。今時この仕方で喜ぶのは古いと思うだろうが、先日知り合いの息子(8歳)が念願のカードをゲットした喜びをまさにガッツポーズで表していたのでガッツは死んでもポーズは死なず、世代を超えて愛されるようである。正と負の感情が同じ握り拳で表されるが、握り込まれた中身は「充実」と「虚無」で相反している。強烈な感情の正負を同列で感覚せずにいられない人間の性か、よく出来ているものだ。
みぞべの「チョキ」
“皆に平等に勝機がある”という観点から、万人の認知を得た上で採用されているじゃんけんが意味するものはなにか・・・そう、人間はじゃんけんに頼らなければ平等な勝負さえできないのであり、すなわちそれは、人間が生まれながらにして不平等であることの証明に他ならない。嗚呼、古くから老若男女に採用され続けてきた“平等な勝者選出ツール”の裏に隠された、この世の真実を見つけてしまった。ついでにもうひとつ見つけた真実、キミはどうやら最初に、チョキを出すっぽい。待ち遠しい夏は早すぎた梅雨のせい。降り止まない雨に混じって一粒の涙。それはいつしか小川になって、集まって川になって、海抜0mを目指して流れていくもんだから、そいつに“もう困りましたねとしか言い様がない川”と名付けて、笹舟ひとつ浮かべた。しかし速過ぎる川の流れに笹舟はコントロールを失って、前へ進んだり後ろへ進んだり回転したり横転したりで、もう困りましたねとしか言い様がない。手のひら広げる僕の面前、ピースサインではしゃぐキミのモチベーションを、なにかしら世界平和に役立てることは出来ないだろうかと考えてはみたが、結局何も思い浮かばず途方に暮れた。
はるかの「パー」
人の手はパーからできている。グーもチョキも、パーの変形だ。パーは寛大である。そんじょそこらのグーやチョキとは違う。大きく包み込むやさしさがある。拍手をする。手を振る。握手をする。肩をなでる。背中をさする。抱きしめる。ほら全部パーじゃないか。グーやチョキといった緊張から解き放たれるとき、人の手はパーになる。それは弱々しくもあるが、実にしなやかで安らぎにみちている。そのおおらかで普遍的な外形は、永遠さえも感じさせる。しかし無情なじゃんけん業界。それでもあなたはチョキを出すんですか。そうですか。
やりきれない夜は幾度となくやってくる。止むに止まれず酒に呑まれる日だってある。居酒屋でくだを巻き、独りごちる。じゃんけんなくして生活なし、生活なくして人生なし、ああそんなのいつの時代のことか。もうじゃんけんなんてしない。勝敗だってどうでもいい。僕はもう土俵を降りたんだから。しかし…
「すいませ〜ん、生ひとつ〜」
掲げられた僕の手はやっぱりパーだった。
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