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発行・ライブハウス/渋谷アピア
アコースティック情報誌「あたふた」 Vol.106 2006.2月号

Tanaka Makiko First CD Album
未明/田中眞紀子

鍵盤上を舞うように脈動する田中眞紀子の唄世界。
現実と虚構の狭間でそれは始まる。ドラマは愛と血と
生を語りながら、未明の劇場へとあなたを誘う。

鍵盤楽器だけで重厚なサウンドと多彩な表現を生み出した希有なアルバム。全曲、田中眞紀子SOLOで収録!!

1.よるの時代
2.ヒーロー
3.ハルノジダイ
4.Tシャツ
5.はしばみ色の恋
6.死んじまいたい
7.冬の眠りの夢
8.未明
9.平和の国のNEEDS

2.22 ON SALE
同日・CD発売記念ライブ渋谷アピア


全9曲 53分
PMF-123 ¥2000(税込み価格)
ペルメージ・レコード

 このCDを作り上げるにあたり、御礼を申し上げたい方々を揚げていると枚挙に暇がなくなってしまうので、直接に関わって下さった方への四つのありがとうを。

田中眞紀子

 まずはマスター。
 私の初めてのソロライブをアピアで11月に行うと決めたのは、その年の7月。その夏の間に持病が急激に悪化し、人前でやるのは無理と判断した私はアピアに断りに行った。 「こんな状態でライブをやるのはマズイですよね」と切り出した私に、マスターは怒る様に言ったのだ。「何を言ってるの、やりなさい!」 そしてこう付け加えた。「任せなさい!」任せるって、何をだ? と頭をよぎったが、大きなおじさんに叱られている気分になっている私にはそんな事を問う勇気などなく、結局そのままライブは決行され、私の長年の夢はあっさりとかなってしまう。私の夢・・・ それはもし、私の事を全く知らない人が一人、そう一人でいいのだ、私の心の奥を吐露した歌を良いと言ってくれたら、私だけが間違っているんじゃないかという長年の脅迫観念から解放されるに違いない。そんな思いを強く強く、その頃の私は握りしめていたのだ。だから最初のライブには知り合いを一人も呼ばないと決めていた。でも直前になって急に不安になり、その頃つき合いの密度の濃かった音楽仲間数人に声をかけてしまい、二人かけつけてくれたんだけどね。 ライブの後、見知らぬ女の子が「とってもよかったです」と声をかけてきた。拍子抜けするほどあっさり"私は解放された"らしいのだ。あの彼女は今、どうしているんだろうか。仲間の一人が祝杯につき合ってくれて、その夜は夢心地に過ぎてゆき、そして翌晩の事。そのライブを録音したカセットテープが私を奈落の底へ突き落とす。このヒドイのは何なんだ!? そんなはずはない! 私の計画では私の歌はもっと良い歌であるはずなのだ!何が間違ってるんだ!? 神様は抜かりなく私に次の夢をお与え下さった訳です。
 しかしその12年後、CD制作で全く同じどん底を味わうとは思ってもいなかったな。そんなはずはないったって、もうCDの録音をしてるんだし、あれから12年も経ってるし、ゼツボウ的よ。計画どころか今度は私自身をたくさん、たくさんアキラメたわ。なのにマスターにはCD作る前、お酒をたくさん飲んで、「田中さんは昔はよかったんだよ〜」って言われたの。どうすりゃいいのよこのアタシって、カナシクなっちゃう。でも、そんなゼツボウもアキラメもカナシミも、何と大きな幸福の中なのだろう。あの時の「任せなさい!」がなかったら、これらの事もこれからの事も、すべて微塵もありはしないのだ。マスターは本当に私の音楽のパパなのです。

  私には音楽の父がもう一人いる。沖縄在住のミュージシャン佐渡山豊氏。
 私が彼のハートを射止めたのが(アハハ)『平和の国のニーズ』という曲だった。これは正に歌い手田中眞紀子のターニングポイントになった曲である。作り始めたは神戸の少年Aの事件の後。初めて歌ったのは次の年が明けた頃。それはそれまでの曲と全く違った。それこそ脳味噌が痺れる程に使って作り、初めて歌った時は吐き気がする程の勇気をふり絞った。その感覚は今でも身体の奥に残っていて、私はその感覚を後追いするかのようにライブを続けているのかもしれないのだ。そしてこの曲で初めて、聴く人から批判を受けるという経験をする。ショックだった。脳味噌と勇気をふり絞った分、その衝撃は大きかった。私はその時、選択をする事になる。批判を避けるか、それでも歌うか。結局私は、私の中の"ふり絞った"感覚を選ぶのである。ほんの何人かこの曲を良いといってくれた人の存在を支えに。そして人伝てに遠く沖縄の佐渡山氏の耳に届くのだ。
 彼との出会いは、私に私の音楽を披露する多くの場と、更なる多くの出会いを与えてくれた。7年8年と年月を経るにつれてリアル感を増すこの曲によって、表現するという覚悟のようなものを身に付けた気もする。私がCDを出す事を、まるで娘が受験に受かったかのような勢いで喜んでくれる佐渡山氏は、私のその覚悟を更に刺激してくる。戦後60年の節目とか、何とか劇場の刺客とか騒がしかった去年の夏、ちょうどこの曲を録音していた時に佐渡山氏とゆっくり話す機会があった。
「オレにはミサイルって言葉はすぅーっと入ってきたよ。だって荷台に山のようにミサイルを積み込んだトラックが目の前を通って行くのは、オレには日常茶飯事だから。」
 あぁ、私はダメだと思った。ミサイルなど見た事もない。何も終わっていないまま進んで行っている事を、彼は生活の中で知っている。彼の存在は私のいる場所を常に意識させるのだ。私はただテレビの前でうずくまっているだけなのである。

 まりえちゃんをアピアで見かけ始めた頃、そりゃ驚いたものだ。カワイイ!何でまたこんなカワイイ子がPAという裏方の仕事を選ぶのかね? 本人が芸能界進出を目指す等、検討したらよいではないか!? その一方でこうも思ったのね。にしても、無愛想なコだわぁ・・・ そう、その頃まだ10代だったまりえちゃんはアピアなどという海千山千な場所に来てしまって、緊張のあまり簡単に笑顔など作れなかった様なのである。
 ある日アピアに遊びに来た私の耳に、随分遠くから「ヒーロー!」という声が飛び込んで来た。見ると、それまでロクに話しをしたこともないそのブアイソちゃんが、私に向かってヒーロー!と叫んでいるのである。しかも「ヒーロー、ヒーロー」とオオムの様に繰り返すだけなのだ。んーー、 何とも定まりのつかない笑顔でその言いっ放しに応えた私であるが、それがどうやら"まりえは田中さんの『ヒーロー』って曲が好き"という意味らしいと気付くのに、本当に時間がかかってしまったのである。その次に会った時には、はにかんだ様な笑顔を見せてくれちゃったりして、まきこさんはその時からもう、まりえちゃんが可愛くって可愛くってなりません! このCDの制作期間、若いあなたの素直な、いっぱいの愛情でかまってくれていなかったら、私は多分最後までもたなかった。その上この度はプロフェッショナルなところを見せつけられ、あんな事もこんな事もしてもらってしまい、もう当分頭も上がりませんっ!

 テケタ氏の高円寺アローンでのデビューライブで、娘の衣良ちゃんに会った。彼女に会うのは三回目。最初はピンクのぶたという店のバーベキュー大会、二度目は火取ゆき(my love!)のライブ。私がメ知らない人モである為の人見知りもあってか、彼女の印象はおとなしい、伏し目がちの女の子というものだった。その時もそう。テケタ氏のライブ終了後、打ち上げて少し話しをした。絵や陶芸など造っているという彼女の、ケイタイに収められた作品の写真を見せて貰うと、うつむいた優しい顔の女の子の絵。自分をイメージしたと彼女が言うので、私は思わず「いつも下を向いてるんだね」と言ってしまった。彼女はただ、まっすぐ私を見ただけで、何も答えなかった。
 彼女のあまりに突然の訃報を聞いたのは、それからわずか三か月後。まりえと同じ22才。トトロの森の中に突然出現したような、心があらわれるような斎場。公園をイメージしたというロマンチックな祭壇。そんなお通夜で私はこの絵に出くわしてギクリとする。
 「なんだ衣良ちゃん、上向いてるじゃんノ」
 私の、取り返しのつかない激しい後悔。
 でも、うつむくも、まっすぐを見るも、上を向くも、人生誰しもにある事だね。
 衣良ちゃん、あなたにも。そして私にも。
 彼女が最後までそこで生きる事を夢見ていた場所が、佐渡山氏の暮らす沖縄である事も、何かの巡り合わせかと思うのだ。この度その絵は、レイク氏の手によって、田中眞紀子の歌の世界に見事に組み込まれている。

 そして感謝を伝えたい、枚挙の暇のない方々へ。
 今の私の精一杯をつめ込んだこのCDが、あなたに少しだけ特別な時間をプレゼントすることができたらと、心から願っています。
 ありがとう。


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