発行・ライブハウス/渋谷アピア
アコースティック情報誌「あたふた」 Vol.100 2005.7月号

「田んぼ通信〜8年目の僕〜」

REIKU

  春、新潟の岩室村で毎年のように作っている「アピア米」の苗を作り、5月の田植えは例年になく盛り上がってスタートした。毎年アピアから沢山のミュージシャンの人を連れて約半年かけてお米を作る「アピア米」。秋にはこの村でも最大級の収穫祭でライブをやる。ただ、素人が全て素手で作るのだからなかなかうまくいかない。いつも、泥んこになりながらも試行錯誤しながら必死に作っている。今年もやっぱり草取りはハンパじゃなくきつかった。もちろん、除草剤や農薬も一切使わないのでホントに草との戦争である。指が折れそうな位草を抜きまくる。そして堅い土の中に埋める。この繰り返しである。しかも、真夏の炎天下に毎年やるのである。日本中の農家を探したって真夏の炎天下で草取りする人はいないだろう。それでも、何故か汗を流すことが幸せだと感じる。

 最近では、草を見ると条件反射のように抜きにかかってしまう。しかし、以前僕は森の人から草一本刈るのにためらう気持ちが必要なんだと教わった事を今年は思い出した。ボクの頭の中は草イコール雑草、雑草イコール取るなのである。そんな方程式いったいいつどこで覚えたのか自分でも分からないが、取る必要のない草だってある。でも、その草がなんだか分からない。除草剤や農薬を使えばほんとうに草一本も生えない。虫だって寄りつかない。悩む必要も無くなる。でも、僕らの田んぼは草も虫もいる沢山生きている。そんな中で稲の成長を妨げる草や虫だけを取るのは容易ではない。悩みの種は草や虫がいる事ではない。何故、草や虫が稲の成長を妨げるかが問題なのである。とここまでは理解できたのだが、その先はまだ分からない。本当に不思議な事だが、同じものを見てて農家の人には見えても僕には見えないのだ。この目に見えるのモノと見えないモノの差だ重要なのかもしれない。
 しかし、今年は少し田んぼの四隅が見えて来た気がした。全てがそうかどうかわからないが、真剣にやれば成果は必ずある気がする。成果などと言うものは必ずしもすぐに表れるものではない。むしろ、遅れてやってきたり、すばやく通りすぎてしまっている事が多い。だから、油断してると気づかない事も多々あるはずだ。

 僕にとって田んぼは、苗を植える場所でもあるが、もっと大切な心の幸を植える場所でもある。それを約半年かけて育てて立派な米にする。出来た時には本当の喜びや幸せもその時に感じる。でも、その間ただ漠然と田んぼにいるだけでは、田んぼは心を開いてくれないし米も出来ない。一生懸命に田んぼと向き合った時に初めて大地の優しさと恵みを惜しみなく田んぼは与えてくれるのである。またもう一つ、田んぼは僕にとって旅をする場所でもある。僕が旅をしたアジアの人々はこうして地球の恵みを感じながら生きていた。田んぼに入るとその光景が思い浮かび更に想像が増しどこへでも行けそうな気になるのである。そして、腰を曲げて下を向きながら仕事をすると言う事は自分と向き合う感じに近い。だから、どうしも続けていたいのである。
 この田んぼには本当に大勢の人達が足を入れている。しかも、とても個性豊かな人達が多い。最初の田んぼの時は、水着で田植えする人、セーラー服姿で田植えをする人達がいた。今年で8年目だけど、僕たちはいつも1年目だ。だから、いつでもどんな時でも笑顔が溢れてる田んぼになっている。肉体的にもかなりハードは時もある。それでも、みんな何故かこの田んぼにやってる。そう言う未知の引き寄せる力も田んぼは持っている。
 今年もまだ草刈りや稲刈りや脱穀や最大のイベントである収穫祭がある。是非、参加してみたい、ちょっと見てみたい、自然にふれて見たい、温泉に入りたい、弾力の無い生活が嫌になった人、是非田んぼで弾みをつけてみては!田んぼに参加した方は、最大のイベントである収穫祭でライブも出来るぞ!興味がある方はアピアまで!



「桁違いの文章」
青木研治

 先日、アピアの店長R氏に、「あたふた」の100号記念に何か書いて欲しいと原稿依頼を受けた。今回で3回目である。ありがたい。日ごろ誰かに依頼されるわけでもなく、ひたすら詩やWEBで日記なんぞを書き連ねている僕にとって、人に求められて言葉を書くという機会を与えられるのは、単純に嬉しい。なので、僕は、今回も今までと同じように二つ返事でOKをしたのだけれど、返事してすぐさま今までとは違った自分の言葉を書き連ねていくにあたっての緊張感と責任感が背中にのしかかってきた。そうだ。今回は今までのように、「あたふた」の"79号"でもなければ、"88号"ではないのだ。
桁が違う、という慣用句がある。何かと比べて格段の差があるという意味だが、今回、「あたふた」の"100号"に原稿を書くということをちゃんと認識してしまった僕は、やはり100という数字と比べても全く見劣りすることのない、今までとは明らかに一桁違う内容の文章を書かなくてはいけないのではないか?思ってしまったのだ。
 だけど、そんな気持ちとは裏腹に、実際どんな内容の文章を書けばよいか全く浮かばなかった。R氏に何かテーマをもらおうと助け舟を求めてみた。するとR氏は「今回は青木さんにおまかせしますよ」とのこと。平たく言えば自由に書いて下さいってことである。僕はまるで向かうべき場所定まらないまま大海原に素っ裸で放り込まれた気分になった。だけどR氏の一言は暫くして僕にとって完璧な助け舟になったのだ。まるで誰かの何時かの人生の再現みたいだ。そうか、そういうことか・・・・・・。
僕が「あたふた」の100号に書くべきペンの矛先は、円周率の小数点以下の数字をひたすらはじき出すように自分の内面の掘り下げていくことで一桁違う深みのある文章を書き連ねようとする詩や日記とはまったく正反対の方向に向かわせれば良いのだ。
だから「継続は力なり」という言葉を信じていながらも、僕が今書いているこの文章は、今、とてもあたふたしている。

だけど僕にいわせりゃ、それは当然のことである。
内へ向かうのか?外へ向かうのか?では全くもって話が別なのだ。
つまり、今までとは明らかに桁が違う話ってことである。


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