発行・ライブハウス/渋谷アピア
アコースティック情報誌 Vol.96 2005.3月号
Brogressive note Vol.1
「ブログ」って何だとブログれる話
渋谷アピア・マスター
伊東哲男
 「ブログ」ってナニ?というお方は、私みたいな50代の人間か、パソコンも携帯も持たないというデジタル嫌いな面々か、そうでなきゃそんな事とは無関係な世界に生きている幸せな?人たちなのだろう。それくらい、今やネット界を凌駕している。ちなみにもし知らないあなたのために簡単に説明するならネット上に公開する「日記」のようなものと解して貰ってイイ。
 
 私が「ブログ」の存在を初めて知ったのは確か3年ぐらい前のこと。そのころはまだ会社内のみとか友達同士のみの公開といったものがほとんどで、"何だ昔の交換日記か社内日誌のネット版か"ぐらいに軽く見放していた。それがここまで発展するとは、時代を先取りする感性が命の生業とする私としては大誤読であった。
 今やホームページ(HP)で検索とブログで検索が対等になりつつある勢いである。HPを作るのは私が始めた8年ぐらい前はソフトも使わず大変であった。今や比較的簡単に作れるソフトが普及したとはいえマメにに更新するのはかなり時間と情熱を要する。ましてアピアのHPみたいに膨大なページになるととても気楽に維持できるものではない。日々更新される情報の量に常に追いまくられている現実だ。それに比べるとブログは一度立ち上げてしまえばフォーマットが出来ているので更新するのはそれこそ日記を書くようにマメにできる。携帯メールの感覚に近いのだろう。
 
 しかし、不特定多数の人間に自分の独白というか日記を公開するというのは恐いというか、恥ずかしいというか、どこか抵抗感がある。きっと見られたくない日記と見て欲しい日記の両面があるのだろう昔から。
 それにしてもどこか寂しい感じもする。感動したり怒りを感じたり色々あったらそれを分かち合える仲間や友達やらと、語り合い飲み明かせる場があって、そんな風に直接生な人間と触れ合う機会が、遠くなったのかな?それとも生な人間はいろいろと煩わしくて面倒くさいのか?反面、身近な人間だけでは狭い世界でもっと多くの考えや経験、感性をもった人と出会えない、これはきっと広がりのある人眼関係を生み、人を孤立から救うのだろうとも思える。深みは疑問だが! そんな風に難しく考えてはいけないのだろうブログはきっと。しかしHPでは中傷や著作権や厳しく規制されつつある中、日記なら思うように何を書いてもいいのか?昨年九州で起こった小学生の少女が同級生の少女を学校で刺し殺してしまった事件はブログでのやりとりが原因か?と思われる。身近で一緒に自殺してくれる人間がいなくても広がりのある関係ならそれも可能だ。
 みんなが自分の考えや意見を表現し始めたらそんな事も起こる。闘争の始まりだな。国と国なら戦争だ。平和に生きたいのなら黙って死んだふりして生きているしかない。悲しいかな話し合う事で理解し合える事には限界があることを長い歴史が証明してしまった。たとえ大きな理解を得たとしても小さな利害がすぐそれをぶち壊す。と言って無意味であっても人は黙って転がっている石ころではないのだから、踏みつけられてイタイことは痛いと、ブログれるほうが生きてる感じがしていいに決まってる。(出た!!ブログれる・・・定義はしません勝手に使ってくれヨ)
 
 見られることを前提に書く日記は唄うために書く詩と似てはいないだろうか?新しい日記という形態の私小説というか文学の一ジャンルの可能性すら感じるのは時代の先取りしすぎなのか?唄が<音楽>なら、<文学>から<文楽>という人形浄瑠璃ではなくて文を楽しむという新しい流れが起こっているのかも知れない。 そういえば活字離れで低迷する出版界にあって芥川賞をはじめ20才前後の若い世代が台頭してきて本が売れまくっている現実は、ブログや携帯メールの普及と無縁ではないのだろう。生まれて初めて書いた高校生の小説が、文学賞と獲得するというのは今までの堅い純文学では考えれない事だが、音楽では、普通のことである。文学あるいは文芸という門戸の狭い学問芸術のジャンルから文楽というエンターテイメントな方向へ移行しつつあるのかも知れない。「ブログ」がまさにその旗手なのだろう。ペンと原稿用紙に向かっていたものが、道具と媒体を兼ね備えた携帯やパソコンを得て若い世代の活字離れを逆転したのだろう。

 さて、音楽はというとすっかりエンタメ化し過ぎて本来のモチベーションが下がり失速気味な現在、もっと音を学び、美を術とする<音学>的なるものが求められて来るかも知れない。それは素朴で非エンタメな生・活なものだろう。三味線や沖縄音楽のブームなどもその表れのような気がする。バンドやオーケストラよりも弾き語り、スタンダードよりもブログ的なオリジナル、そんな方向での良質な表現とパワーがもっと受け入れられるのではと希望的観測をしている。私は一億人口総表現者となり、心と心の闘争や愛憎があって平和をイメージできるので、みんながどんどんブログれる事には大賛成なのです。

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