秋穂一義
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第三話 ぐゎらん堂の終焉
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1985年の秋、村瀬さんは吉祥寺のバウスシアターで「ぐゎんら堂発・武蔵野フォークジャンボリー」というロケット花火を打ち上げたあと、15年の歴史に終止符を打ち、静かに店をたたんだ。すでに働く身となっていたぼくは、最後の三年間はほとんど二日とあけずに通い、渡さんとも急速に親しくなっていたったが、そのことを語る余裕は今はない。先のコンサートは二枚組みのレコードになっているが、そのなかで異彩を放っていたのが、「生きてるって言ってみろ」で衝撃と畏怖を与え、「セメント」で言葉の魔術師として観客の切ない笑いを誘い、「ワルツ」で心底から聴く者をしんみりさせた風の王者・友川かずきであった。しかもその時彼の後ろには闇からの使者・石塚俊明がドラムセットとともに圧倒的な存在感をもってドーンとひかえていたのであった。次にステージに登場した渡さんは前振りとして、「何かおっかねがったなあ」と呟いたのが、友川かずきのステージの雰囲気をよく伝えている。もちろん渡さんはその後何事もなかったかのように淡々と自分の唄の世界に入っていった。渡さんはこの日のステージで最後の曲として、一期一会をテーマとした珍しく自ら作詞した「いつか」を唄ったのだが、自分の出番を終えて楽屋で焼酎の水割りを呷っていた友川氏は、マネージャーに「渡さんのラストの曲だよ」と言われ、観客席でその曲を聴き終えると、ぼくの横で「純粋なんだなあ」とぽつりと感想をもらした。
渡さんが唄うようになったのは、ピート・シーガーやウディ・ガスリーらのアメリカのプロテスト・ソングの影響からだと、本人も周囲の人たちも言っているけれど、なぎら健壱が書いているように、大正演歌へのこだわりが最も大きいようだ。ある時ぼくにも吉祥寺のガード下で別れ際に「大正演歌の本を読んでみたら」と著者名まで挙げて言ってくれたことがあるが、まだその本に出会っていない。また自宅にブラッサンスのCDをもって遊びに行ったときには、「こっちの線もあるんだよね」と言った。そのことは彼の唄でぼくがいつも歩きながら口ずさんでいる「雨の日」という曲が、ブラッサンスの「ポルノグラフィ」という曲に高木護氏の詩を乗せたものであることからも歴然としている。一介の郵便配達夫が評論家めいたことを言って恐縮だが、もちろんだれそれの影響などということに何の意味もない。むしろ、表現された唄とは、この世界に引かれたいくつもの異なった線分の交点で途方に暮れて立ちつくす者が、ついもらしてしまう幽かな嗚咽の声と別のものではないと言った方がいい。
渡さんには1997年の初夏に青森県の片田舎にまで足を運んでもらったこともあるが、その時のエピソードは別の機会に譲らねばならない。誰もが周知の事実だが、彼はすでにこの地上の人ではない。ぼくは未だに彼の死を信じられずにぐずぐず生きている者の一人だけれど、奇しくも今日4月16日は彼の2回目の命日だ。外は雨が降っている。これから大音量で「雨の日」を聴こう。そしてコップ酒をぐびりと呷ろう。肉体が滅びても、唄は残る。渡さんの魂よ、永遠なれと、今は静かに祈りたい。
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唄を愛する郵便配達夫
1984年12月ぐゎらん堂店内。渡さんの両側は筆者の友人・佐々田夫妻。後ろが筆者。
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