発行・ライブハウス/渋谷アピア
アコースティック情報誌「あたふた」 Vol.102 2005.9月号

Brogressive note vol.4

言葉になることは言葉にならないことのごくわずかでしかない。

アピア・マスター 伊東哲男

Marry's Pain Vol.2

 あの2001年、9.11ニューヨーク同時多発テロから早くも4年目を向かえる。最近こそテレビであの崩落シーンが放送されるのは少なくなったが、あれだけ繰り返し放送されたのだから4年たった今でも、ボクの脳裏には鮮明に焼き付いている。それはまるで当時あの現場に居合わせて、あの瞬間を目撃したかのようにリアルだ。今年はなぜなのか、その9.11に衆議院総選挙だという。妙に胸騒ぎがするのはそのせいなのだろうか?

 自民党が崩落するのか、変革を遂げるのか、これを読まれる頃にはその結果が出ているのだろう。単なる派閥の権力闘争じゃないかとか、独裁恐怖政治だとか細かい意見はいろいろあるだろうが、大局的にみれば小泉純一郎という一匹の政治家がまるで自爆テロなみに古い革袋に詰められた自民党というバケモノをぶち壊そうとしていることは確かなようだ。話し合って各派閥の合意を得て民主的に変革しようなんてあり得ない。独裁者だとか変人だとか、なんと言われようと小泉純一郎が一匹オオカミだからなしえる事だと思う。

 ボクが20才の頃、そう全共闘という学生運動の全盛期のころだ、よく友達と議論したことの一つに、体制内変革か、体制外変革かということがあった。社会の体制や組織を変革し良くするには、その体制や組織の外にドロップアウトして、外側から新たな価値生みだし体制内を包囲し内部崩壊させる、一方体制の外になど本当には出られないのだという意見、変革するには体制の内部に入り込みその中枢から変革すべきだと・・・。ボクはというと体制の中に入れば何もかも骨抜きにされてしまうだろうという考えでドロップアウト側だった。浪人中のアルバイトを除くと一度も他人や会社から給料という報酬を貰った事がないし、どんな組織にも属したことがない、何の後ろ盾も保証もなく自力で稼ぎ生きてきた、バンドすら組んだことはない!!、で、37年。僕らはメジャーの生み出す音楽は体制の中で人々をおとなしく飼育する為の文化だと、それに対し外側からカウンターパンチを喰らわせて、目覚めさせ、不安にさせ、驚かせ、真の美しさに感動させたりと、メジャーでは成し得ないもう一つの文化圏を創ること、ドロップアウトすることにより自立し独立したインディペンデント(インディーズ)な立場を確保すること、を目指してきたわけです。

 一方、体制内で変革を唱えた仲間は、一流企業に就職し今や2007年問題という団塊世代の退職が社会を激震させている。彼らはどれほど変革出来たのだろうか?実はボクは期待していたのだが、彼らが組織の中で力を持つ年齢になれば、人数は多いし、もっと世の中大きく変わるだろうと・・・しかしバブルとその崩壊に振り回されてそれもどこかに消えたようだ。もう一方、反体制の立場にいた人々の中にも安田講堂事件以後、体制外からの変革をあきらめ福祉関係など様々な体制内に入り、その底辺から地道に変革を試み、それなりの成果をもたらした人たちも多数いた。古い話だが、今度の解散・総選挙の過程でそんな話を思い出してしまったのだ。小泉純一郎が総理になった時、この男なら自民党を、日本の政治を変えることが出来るかも知れないという予感を多くの人が持ったと思う。そんな目で見守っていたらだんだん情けない答弁ばかり、このまま押しつぶされるかと思っていたら、単なる居直りかも知れないが、自民党を道連れに自爆テロ、戦後初めての体制内変革となるのか、野に下っても壊れなかった自民党とその周辺の深いしがらみを、内部から崩壊させる突破口となるのか?折しも戦後60年の節目の年に。なんでもいいからぶち壊せ、ビジョンなんてなくていいから、明日がどうなってもいいからぶち壊せ、大丈夫、日本は日本人は、しっかりしてるよ、またすぐ新たな体制を作るさ、またすぐビルを押っ立てるさ、でも一度壊したのとソウでないのとでは大違いだから。
 
 戦後60年たった今夏、もう一つ目についた事がある。それは広島・長崎の被爆体験者たちが当時の体験を語り始めたことだ。もちろん今までだって語れる人は語っていた。訴えていた、原爆の悲惨さ残酷さを、そして平和を。しかし多くの生き残り体験者たちはその口を重く閉ざしたままだった。それが何故か今年その口から少しずつコトバが漏れ出したのだ。目ヲ焼カレ、顔ノ皮膚モ、ビラビラ焼ケタダレ、衣服モ焦ゲオチ助ケヲ求メル少女タチ、熱イ熱イヨト、橋ノ上カラ川ニ身ヲ投ゲル人々・・・彼らが15才の時に見た光景である。戦後60年ということは現在75才、当時20才ならば80才になる。あまりに生々し過ぎてマイクを突き付けられてもその時の気持ちなど語れなかったのだろう。60年たってやっとコトバになってきたのだが、もう先も短い人生である。世界で唯一の被爆体験者たちが、その体験を語り継ぐ責任を感じても、言葉になることは言葉にならないことのごくわずかでしかないのだ。

 もしテレビが普及していたなら、と考えてしまう。あの9.11のニュースのように、広島長崎の原爆投下と被災地の様子が、世界の茶の間にその一部始終が繰り返し繰り返し放送されていたのなら、世界は驚愕し核はとっくに廃絶されていたかも知れないし、60年も経って彼らが言葉になどせずにすみ、黙って墓場まで持ち去れたのにと思うのだ。

 9.11多発テロ以後、アメリカの恐怖は「もしあの飛行機が核を積んでいたなら・・・」であろう。冷戦崩壊以後ブラックマーケットには「核」が流出し、大根のようにではないだろうが、ゴロゴロ売られているらしい。テロリストが核を手に入れるのは難しいことではない。世界で唯一の核の行使国であるから、その怖さもよく知っているのだろう。だからこそ報復の火の手は核を根絶やしすべき勢いで広がってる。ブッシュ政権はアフガン、イラク、北朝鮮へと核の匂いを求める麻薬犬のように追い求める。自分は大量に抱え込んでいるのに。9.11では3300人位の方が犠牲となったが、その後のアフガンでは軍関係者を除いて一般市民だけでその3倍の1万人ぐらいの犠牲者を生んでしまった。さらにイラクでは9.11の30倍もの10万人の一般市民が報復の犠牲者となっている。広島・長崎からベトナムを経てアフガン、イラク、へと・・・アメリカよ!

 僕らは明日の子供たちに、何をどう語り継げばいいというのか?言葉になることは言葉にならないことのごくわずかでしかないのなら、いま、言葉になって歌える歌があるのなら、もし君がそれを持っているなら、そして歌える場所と聞いてくれる人間がいるのなら、それはどんなにか幸せなことか。



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