発行・ライブハウス/渋谷アピア
アコースティック情報誌 Vol.122 2007.5月号
秋穂一義

第二話 表現空間としてのぐゎらん堂

 仕送りで細々暮らす学生の身分では、それほど頻繁に通うことはできなかったけれど、夜更けにふらりと表れる渡さんを見かけたことが何度かあった。もちろんぽっと出の田舎者は話しかけることも、サインを求めることもかなわず、店内に流れるBGMを聴くふりをしながら、浅ましく渡さんと店主とのやりとりを盗み聞きしたり、その表情やしぐさを観察することで精一杯だった。黒塗りのテーブルの上には、きまってなみなみと注がれたコップ一杯の日本酒と同量の水が置かれていた。渡さんの持論では同量の水を飲んでいれば酔わないのだそうだ。そうしてお酒をちびりちびり呑むというのではなく、話の接ぎ穂に一息いれるように、鬚もじゃの口でぐびりとやる。するとコップのなかのお酒は二勺も残っていないのだ。いかにも酒豪にふさわしい呑みっぷりだった。その豪快な呑みっぷりが後年彼の体を蝕んでいくことになるのだが、高校生の時から唄っているわけだから、当時はまだ二十五、六歳だったろう。その老成した唄や風貌にもかかわらず、年齢も肉体もまだ若かったのである。
 ここで渡さんの他にぼくがぐゎらん堂で観た歌い手たちを思いつくままに挙げてみよう。ぐゎらん堂観客動員記録保持者・友部正人、葛飾の風を唄う自称高田渡の弟子・なぎら健壱、「されど私の人生は」を拓郎に提供した斉藤哲夫、永島慎二に師事した漫画家でもあるブルースのシバ、愛を唄わせたら天下一品と評された渡辺勝、「鯨の眠りかた」や「ブスのブルース」で観客の笑いをとったガンさんこと佐藤博、「あしたはきっと」のペケこといとうたかお、ブコウスキイの翻訳でも著名な中川五郎、「最終電車」で盛り上がり年越しライブで毎年トリを取った双子のフォークデュオ・サスケ、現在アピアでも唄っている盲目のシンガー・金沢栄東、絵本作家の長谷川集平、演奏にのめりこむようにして愛の歌を唄ったジャマイカ通の田代ともや、「想い出まくら」の小坂恭子といった面々だ。今も唄っているかどうかさだかでないが、若手えは「エピタフ」という曲を唄っていた関西の森千代子、自分のステージなのにド素人のぼくに加川良の「知らないでしょう」を唄わせてくれた寺田町浩幸、渡さんにギターのレッスンを受けていた青柳利博といった人たちがいた。
 異色のところでは桜井敏雄さんという年配の方が、ノコギリをバイオリンのようにして弾いて演歌をうなっていた。確かなぎら健壱が連れてきたような気がするが、竹薮のなかを吹き抜ける風のような、ひゅーる、ひゅーるという音色や太い竹を切る、ぎーこ、ぎーこという響きに度肝を抜かれてしまった。しかも、ひらり、ひらりと歪むノコギリが今にも、ぱきんと折れそうで、はらはらさせられっぱなしだった。以前チェロリスト・坂本弘道(ゴーシュ)がぎーこ、ぎーこ、やっているのを見て、ぼくははるか二十年前のこの演歌師のノコギリを思い出してしまったのである。
 ぐゎらん堂では唄のライブの他に、若手の噺家たちを集めて定期的に落語会もやっていた。後に真打ちに昇進した噺家もいたかもしれないが、残念ながら一人として名前を覚えていない。余談だが、その中に斉藤哲夫の歌う「今の君はピカピカに光って」という曲とともにCMに登場した宮崎美子にそっくりの噺家がいた。名前を失念してしまったが、春風亭何某だったと思うが。落語会の他にもう一つ忘れられないのが独り芝居だ。女優市原悦子の事務所に所属し、テレビドラマ「家政婦は見た」にチョイ役で何度も出演している志賀圭二郎が、故郷四国宇和島の歴史に素材を求め、現代に二人の武将を登場させて激しい権力闘争を繰り広げる場面を獅子奮迅の勢いで演じる姿には、狭いぐゎらん堂の空間で汗も唾も飛んでくる至近距離で観ていただけに、その迫力ある形相に気圧され、薙ぎ倒されるような思いがしたものだ。ぼくは行きそびれてしまったけれど、志賀氏は数年前、吉祥寺のライブハウスで独り芝居をやっていた。長い時の経緯を思うと、その健在ぶりに胸が熱くなり、ついほろりとなってしまった。
 これらの実験的なパフォーマンスは、店主・村瀬雅美さんのさまざまな芸に対する深い愛情と尊敬の念からなされたものだと思う。それがぐゎらん堂という空間を豊穣なものにしていたのだ。

金沢栄東 5月25日(金)
春ツアーでアピアに登場

 1974年頃、金沢栄東を初めてアピアに連れて来たのは、サスケたちであった。この頃ジョイントでライブをしていたなぎら健壱が「双子だって、人間だ!! 」と垂れ幕をアピアのステージに掛けたのは傑作だった。(伊東)



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