History



1970年現在のBARスペースに「SPACE LOBORATORY HAIR」通称、 SAPCE.LAB.HAIRとしてOPEN。それまでの前身は東由多加率いる「東京キッドブ ラザース」の常打ち小屋「HAIR」であった。東由多加は寺山修司、横尾忠則ら と劇団「天井桟敷」を創立しその名付け親でもあった(最近、映画化もされた 小説「命」の主人公である)。東由多加が「天井桟敷」から分立して日本で最 初のロックミュージカル劇団「東京キッドブラザース」を立ち上げ、旗揚げし たのがこの場であった。「黄金バット」が大ヒットし話題となり、ブロードウ エイのプロデューサーの目にとまり、ニューヨークでのロングランが実現。渡 米を機に、その場を譲り受けミックスメディアの表現の実験場としてOPENした のがはじまりである。

当初は、音楽、演劇、舞踏、実験映画、美術、写真、イヴェントなどを中心 に様々な公演が行われた。その頃は、まだライブハウスという呼び名もなく、 小劇場とかアングラ(Under Ground Ciater)とか呼ばれていた。都内でも実験 的な表現や先進的なノンジャンルな表現を自由にできる中小の「場」がほとん どなく、公会堂のような大きな箱か、いきなり喫茶店の片隅で唄ったり芝居を したり、さもなければストリートで警官とぶつかりながら、といった状況で あったので、このような場は実に貴重な存在であった。

映像作家のほしのあきらがアピアの映像部門の柱として上映作家集団「ハイ ロ」を結成し、映画監督の森田芳光が学生のころフィルムを回していたり、劇 作家の山崎哲が劇団を旗揚げしたのもこのころであった。三上寛が青森から上 京し渋谷で最初に来たのがこの店であった、南 正人は世界を旅して帰ってき て唄い始めていた。現在パリで活躍している画家の五月女幸雄が人間をオブ ジェとした前衛的な個展をした折りには警察の手入れをうけ公然わいせつ罪で 2週間もブチ込まれ、作品が没収されるなど、表現の尖端に対する当局の締め 付け?が厳しかったのもこのころである。

やがて時代が「しらけ」に染まる中、70年代中頃ごろより音楽のパワーに注 目しライブを中心としたスペースに変化、店名も「アピア」と改める。友川か ずき、南 正人、友部正人、金沢栄東、中川イサト、中川五郎、シバ、高田 渡、etc、らがとてつもなく熱いステージを繰り広げ、生ギター1本抱えて上京 してきたばかりの遠藤ミチロウが歌い出したのもこのころからである。ライブ の売り上げではとても店の家賃は払えないので別の場所でスナックをやって深 夜まで働いた。昼はアピアであたたかい弁当屋の営業も始め渋谷駅周辺のオ フィスに出前した。ホカ弁の走りであった。中島みゆきが初めてのアルバムの レコーディングのときに手作りのコロッケ弁当を届けた。アルバムの歌詞カー ドの最後に「アピアのお兄さんありがとう」と記されていて(お兄さんであっ た)嬉しかった。いつ寝ていたのだろうと思えるほど人の2~3倍は働き酒を飲 んでいた。オーディションなどしなかったしノルマもなかった。人が人を審査 するなどとんでもなかった。歌いたいと来る人とは「何をしたいか」朝まで飲 んで話したり、殴り合ったりしていた。だから独断と偏見でやりたい者しかや らんとスケジュールを無理に埋めることはしなかった。(今はとてもそんな体 力ありません)




80年代に入ると時代は高度経済成長の上り坂を加速し始め、安価に入手出来 るようになった電子楽器の全盛期となる。テクノ、パンク、ロックを始め多様 なバンドブームが到来。大学の音楽サークルも「フォークソングクラブ」は名 ばかりで行ってみるとみんなエレキやキーボードをかき鳴らしていた。70年代 に生まれたアコースティック系、フォーク系の小さなライブハウスは軒並み姿 を消していく。替わりに大資本の傘下によるほとんど中ホールと言っていい大 型ライブハウスが現れ始める。弾き語りで活動するシンガーソングライターた ちは活動の場を失っていった。全国でもPAや照明の設備を持つスペースは数え るほどしかなくなった。普通の喫茶店やBAR、倉庫や土蔵、民家といった所に 追いやられて行くようだった。対照的に原宿のホコ天に若者が群がる。ヤルほ うもミルほうもあらかじめ合意のもとの安全地帯だ。70年頃の新宿西口広場の 状況を体験してきた僕らにはその違いに笑ってしまう。が、笑ってばかりいら れないのはアピアに来るお客たちが、口をそろえて「暗れーこの店」、雰囲気 がである。おいおいそんなに世の中明るくなったのかい?真剣に歌っている事 の、何処がそんなに暗いのだ!!とやり合う。

  フリーターが増え始め、ちょっと器用に立ち回れば若者でも札びらが切れる ほど潤っていた。金を手にした若者たちは都会の夜をますます明るくしていっ た。問題意識も何もなく、そんな真面目に歌ってないで、もっとおれたちを気 持ちよくさせておくれよと云わんばかりである。チラシ、ポスターに変わって 「ぴあ」「シティーロード」といった情報誌がライブスポットの集客のカギを 握っていった。

さらに笑ってばかりいられなかったのは、アコースティック・ギターが姿を 消したことである。60年代は小さな町でも1軒ぐらいはレコード店はあって、 その店先にはアコースティックギターが何本もぶら下がっていたものだ。それ が渋谷などの大都心の何階ものフロアーを持つ大楽器店から姿を消した。1本 も置いてないのである。本当の事である。取り寄せるか、受注生産、あるいは 輸入楽器店の100万円前後もする高価なものしか手に入らなくなった。これに はマイッタ!!ギターが無くなっては、ミュージシャンも我々もお手上げであ る。第一、若い新人が育ってこない。さすがにこれで店終いになるかと頭をよ ぎったのもこの頃である。しかし、60年代のフォークとは異なる新しいアコー スティックの表現が芽生えつつあったのが救いだった。それらのミュージシャ ンにパワーを貰った。時代が誰も注目しないのならそれだけ競争も少ないわけ だし、かえって好都合。徹底的にアコースティックにこだわってやろう、そち らに賭けた。いつか必ずアコースティックが復活してその魅力に気づく時がく るだろう。いや、アコースティックや弾き語りの新しい文化を創ってその魅力 に気づかせてやろう。時代は廻るものである。電子楽器の音だけにいつまでも 浸りきってはいないだろう。生な音の繊細さやぬくもり、温かさを求めるとき が必ず来る。先回りして時代が追いついてくるのを待っていようと決意した。 そこでまず、始めたのはギターを確保することであった。高価なものは買えな いので、セカンドハンドの店や質流れを捜し質のいいものを見つけてはミュー ジシャンに与えた。結構、掘り出し物があったのはゴミ捨て場だった。60年代 のフォークブームで弾いていたギターたちが押入の中でホコリをかぶってい て、結婚だ、引っ越しだ、子供ができて部屋が狭くなったとやらで、ついに捨 てられて粗大ゴミに・・・それを拾い集めてはメンテして、を繰り返した。頭 の中がアコギ、アコギで一杯だった。今でもそのクセが抜けず、捨てられてい るギターを見かけるとつい車を止めて拾い上げてみたりする!




90年代に入ると、PAや照明の質をアコースティック向きにさらに向上させ弾 き語りの魅力を引き出す事に力を注ぐ。WOOL SOUNDの秋山武と共に、機材の開 発、改造を始める。手作りでスピーカーを組んだり、ギター用の高音質プリア ンプを開発したり、周辺機器を改造したり・・・。PA機材がどんどん安価に なっていくが、パワーと多機能一辺倒で音質がどんどん落ちていく状況になっ た。新製品が次々にデジタル化していく。一見便利に何でも出来るようになっ たように見えるが実はライブの現場では即応性がなく使い勝手が悪かったり、 回路の中で信号がちゃんと読み込まれていなかったりとデジタル化される中で 見落とされているものが多かったからだ。

さらにアコースティックの表現の巾を広げインディーズシーンに一撃をと、 STALINを解散してSOLOだった遠藤ミチロウと共にレーベル北極バクテリアを設 立。さらにアピアで活動するミュージシャンのためにペルメージ・レコードも 設立。現在までに40数タイトルのCD・ビデオ・DVDなどの録音・制作を手がけ る。ライブハウスが無味無臭になりメジャーの登竜門と成り下がってしまった 中で、「場」の原点に立ち返り本当に日本から世界に発信出来る文化を育むた めのインディペンデントなレーベルだ。WEBでの情報網の確立にもいち早く取 り組むんだ。一方、アナログな情報誌「あたふた」も発行。経済大国に比べて 脆弱さばかりが目立つ日本の文化のインフラを固めることこそ必要だし、ライ ブハウスこそ、その一翼を担うべきだろうとの考えで。

90年代中頃よりアコースティックの復活が顕著になり始める。あちこちの街 角にストリートにアコギをぶら下げて歌っている姿が増え始める。原宿のホコ 天よりは60年代のそれに近い風景だが、ココロザシがまるで違うのだろう。パ リやヨーロッパなどのストリート文化ほど自立してないしアメリカの前衛とも 違うようだ。メジャーにつり上げられるのを物欲しげに待っている顔は、街唱 と云っていい。アコギ持ったからと行って60年代フォークじゃないだろう。ギ ターにも時代にも媚びるなよ、もっと今の自分を新しい表現をストリートじゃ なくストレートにぶつけてみろよ、アコースティックが復権して喜ばしいのは 半分で情けないのも現実だった。楽器店のフロアーには再びアコースティック ギターが居場所を得てピカピカと色とりどりに並ぶようになった。エレアコが 圧倒的に増えてた。フルアコにしろどちらにしても考えられないくらい安いの がズラリと。厚化粧のベニアで加工した、ピックUPだけしか金かけてないよう な、楽器の形をしたおもちゃだ。いや、それではおもちゃに失礼だ。昔、ゴミ 箱で拾ってきたギターのほうがはるかにましである。日本のギターメーカーの プライドのなさに腹が立つ。売れればいいんだろうが。何処の国でも文化を支 える楽器とその楽器作りは大切にされてきた。アコギの本当の音を知らない若 者たちはこれがアコースティックと勘違いする。中にはこのチープさがイイと いう。若者がチープなものに惹かれる感覚は昔からのことでよく理解できる が、チープに表現するのでなくチープさの中に表現が埋没してはどうか?と思 う。そんな代物はやがて淘汰されて質のいいものが求められてくるようになる と思うがまた、しばらく時間を要しそうだ。




2000年、21世紀の幕開けを迎える。思えば1970年にこの店を始めたときから 今までずっと世紀末だった。繰り返される戦争、地球環境の急速な悪化、etc. あげればきりがない。バブルの平和ボケした最中ですらここだけは世紀末の中 を生きてきたように思う。新世紀になって何もかもがチャラになるとは思え ず、かといって終わらないドラマにしがみつくのも嫌だ。僕の世紀末のドラマ は終わりだ。30周年を期に大改装。現在のBAR&HALLの形にする。REIKUや茉梨絵、由乃ら10代~20代の若いスタッフが加わる。ニートな若者が増える中、新 たなページを描くのに最高の若者たちだ。彼らがまた新たなドラマの主人公と なり新生アピアのスタートだった。2003年、突然、32年間共にアピアを切り回 してきたママがなんの脈絡もなく他界する。こんなドラマの終わりかたってひ どすぎだった。16年間僕の片腕として働いてきた井上博之も独立して高円寺 「ALONE」を設立。32年間続けたスナックを閉店し新生アピアに統合、ママを していた火取ゆきがアピアのスタッフに加わりBARを盛り立てる。RIKUが結婚 して樹理が新スタッフに、WEBでの新たな展開が期待できる。大きく様変わり して動き出した新生アピア。素敵なミュージシャンたちと共にこれからどう歩 んでいくのか僕も楽しみである。今のことはまた10年後にでも語ることにす る!! 

2005.5 アピア・マスター 伊東哲男

【渋谷アピア移転に寄せて】

~アピアマスター 伊東哲男~
1970年5月この地にオープンして以来、今年5月で40年目に入る。長かったのか 早かったのか走馬燈のようにいろいろな事が思い出され実感は捕らえどころが ない。凄いスピードで駆け抜けていった青春もあれば、一進一退しながら明日 を手探りする冒険者たちもいた。ともかくオープン当時21才だった私が61才に なったのだから、40年という歳月が流れたのは確かなのだ。 渋谷の街も、新宿の歓楽街と比べて静かな若い学生の街だったが、今はすっか り様変わりした。いい意味でも悪い意味でも、変わってしまった事もあれば、 変わらぬものもある。それにしても、老朽化した。私ではなく、アピアのビル である。

もうこれ以上は限界かと感じたのは2~3年前から、さらに渋谷駅周辺の再開発 計画が動き出した。ここに長く居られないのなら、40周年を機に移転しよう、 私のことだが、体力のあるうちにと、また現在の強力なスタッフの力を結集で きる今でしかないと昨年から候補地を捜し始めた。捜しているうちに渋谷を離 れる決意が生まれた。アクセスが良いというだけで、高額すぎる賃料を賄うた めに大幅な値上げを余儀なくされ、出演者や観客に負担をかけ、ブッキングに 於いても経営主義に陥るようになるならば、渋谷へのこだわりは棄てよう。確 かに渋谷は人で溢れているが、一人としてアピアの観客に流れてきた者はいな いのだし。葛藤したが、いままでの40年よりこれからの40年のために最適な場 所を捜そうと。それは渋谷を離れても今より魅力ある場を生み出せるという自 信でもある。

40年前、力も才能も金もなく、思い入れだけで出来なかった事がいっぱいあっ た。今なら原点に戻って出来る気がするのだ。そしてそれは碑文谷にあった。 これからの40年を航海できる船として最適な場所。嵐の日も暗い夜も乗り越え られる新しい船造りがまもなく始まる。明日に向けて宝物を運ぶ船だ。 新しい船を動かしていくのは、私ではなく、若い船乗りたちと、アピアで活動 するミュージシャンと観客であるあなたたちだ。これからの40年は安泰ではな い。温暖化と食料危機をはじめ想像するに難しくない未曾有の困難が待ちかま えている。この船が人々にとって大きな勇気となることを祈るのみだ。 

~友部正人~
はじめてミチロウと会ったのがアピアだった。その頃からミチロウはアピアの 出演者だったのかな。 それからアピアの調理場にいたミキちゃんや、ぼくの奥さんのユミ、バイオリ ンの令たちとアピアバンドを作った。1978年のことだった。映画を撮っていた 村山くんはプリントごっこを使って折りたたみのパンフレットを作ってくれ た。何もかもが楽しい日々だった。最後にぼくがアピアでライブをしたのは多 分1986年。  ああ、久しぶりにあの頃の歌を、一人で歌ってみようかな。

~遠藤ミチロウ(ex.THE STALIN)~
「渋谷アピア」が40年の幕を閉じ、「アピア40」となって生まれ変わる。まっ たく突然やってきたもんだ。いろんなことが突然やってきて大切な思い出が いっぱい残っていく。 32年前東京にやってきて、初めて歌い出したのがアピ アだった。最初の出会いがアピアだったことはボクの歌人生にとって最大の幸 運である。マスターとママさん、そしてスタッフの皆さんほんとうにありがと う。出来損ないのボクを見放さず 叱咤激励してくれたことが、今でも歌い続 けれてる力の源です。 新しいアピア「アピア40」が更なる可能性を生み出す無限の空間になるよう、 ボクもふんどしを締めてかからねば。最後にもう一度「渋谷アピア」ありがと う!!!

~知久寿焼(ex.たま)~
アピア。渋谷のオアシス。でしたね。ぼくは人前で歌い始めた16歳、高校二年 の夏休み前にギターとハモニカつれて、みんなが順番に歌える新人ライブみた いなのに出かけたんでした、たしか。いま44なのでもう四半世紀以上前になっ ちゃうのか、、、。 レギュラー出演者ではなかったのに、あの場所の最後にお誘いいただいてとっ てもうれしい。ありがとう!

~犬神凶子(犬神サーカス団)~
初めまして。赤猫・ヴォーカルの犬神凶子です。 今回このイヴェントの出演が決まって、目茶苦茶嬉しいです。マスターが覚え ていてくれたことも嬉しい!私たちが初めてアピアに出たのは今から10年くら い前で、当時は「情凶劇場」というユニット名でした。マスターにアドバイス してもらったり、写真を撮ってもらって「あたふた」に載せてもらったり、本 当に良くしてもらいました。今でもこのユニットを続けているのは、アピアで の経験が大きく影響していると思ってます。移転後のアピアにも出れたらいい なー

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Equipment


【ステージサイズ】
ステージ(幅7m・奥2m〜3m)

【Sound Equipment】
Main Mixer : sound craft GB4
Main Speaker : original 6way powered speaker
Monitor Speaker : original (unit JBL) ×4 / Pioneer S-X720 ×2
GEQ : dbx 2231 ×3 / dbx 1231 ×3 / Technics SH-8065 / Panasonic SH-GE505Z / RAMSA WZ-9330
PEQ : BOSS PQ-50 ×5
Effect : YAMAHA Pro R3 / SONY MU-R201 / t.c.electronic D-TWO / TC-Helicon VoiceWorks Comp Gate : BEHRINGER MDX2200 / dbx 1066V ×3 / dbx 163x Noise Gate : dbx 463x Direct Box ×2

Mic : [Vocal] SENNHEISER MD431 ×2 / SHURE SM58 ×6 / RODE S1 ×1 [Instrumental] SHURE SM57 ×7 / RODE NT5 ×2 / SENNHEISER E945 ×1 / AKG D7 ×1 / AKG SE300B ×1 / audio technica ATM25 ×1 / ARCO PU-4C(Cajon Pickup) ×1 [Wireless] SHURE BLX2/SM58 ×2
Mic Stand : Boom ×12 / Straight ×2 / Short ×6
CD Player : marantz CD5005
MD Player : SONY MDS-JE630(MOD)

【Materials】
Drum set : Pearl EXR BD 20" / FT 14" / TT 13", 12" [Snare Drum] unknown 14" [Ride Cymbal] K Zildjian 20" [Crash Cymbal] SABIAN Thin Crash 16" / TURKISH Moderate series 18" [Hi-Hat] Istanbul Traditional MEDIUM 14"
Bass Amp : [Head] GALLIEN-KRUEGER 700RB [Cabinet] YAMAHA
Guitar Amp : Roland JC-120 / Fender Hot Rod Deluxe / Fender Blues Deluxe Reissue / FISHMAN LOUDBOX PERFORMER
Grand Piano : YAMAHA C3E
Keyboard : YAMAHA P-90

【Lighting】
照明60台
調光機 : JANDS-EVENT24
スモークマシン : STAGE EVOLUTION SM700 ×1
ストロボ ×2

【Recording】
CD : TASCAM CD-RW901SL
DVD/BD : SONY BDZ-EW500

【Visual】
Projector ×2
Video Camera ×1
Screen ×2
VJ Mixer : EDIROL V-4

【Others】
譜面台 ×8
譜面灯 ×6
ピアノ用椅子 ×3
Guitar Stand ×4
Keyboard Stand ×1
Keyboard Stand X型 ×1

※上記は2017年10月現在の状況です。今後変更される可能性があります。最新の状況はお手数ですが当店までご確認ください。

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Label


【ペルメージレコード】
生き物である音楽を育て全国に発信する個性豊かなアピア40レー ベル。 ミュージシャンの為にレーベルをもち現在まで70 枚ものアルバム のレコーディング制作も行っており、 全 国レコード店への流通や「あんぐら市場」という通販サイトも運営して いる。ライブで培った技術がここにも生きている。 自主制作 CDの録音からミックス・マスタリング・ジャケット制作まで、高度な技 術と経験でアーティストのアルバム作りに対応致します。

WebShop あんぐら市場

【北極バクテリア】
北極バクテリアはスーパーインディーズ・レーベルです。決して、メ ジャーに限りなく近いマイナー・レーベルではなくメジャー に 限りなく遠いインディーズ・レーベルです。 極端なハナシ、 パーソナルレーベルといってもかまいません。 インディーズならインディーズにしか出来ない楽しい冒険をしたいので す。こんなことは決してメジャーではやらないということばかり、やっ てみたいのです。シンプル、ストレート、スーパードキュメント、これ が北極バクテリアのモットーです。(文・遠藤ミチロウ)

遠藤ミチロウWebSite

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Profile


1970年に渋谷駅近くに「SAPCE.LAB.HAIR」としてOPEN。そ れまでの前身は東由多加率いる「東京キッドブラザース」の常打ち小屋 「HAIR」であった。当時は、まだライブハウスという日本独自の 呼び方もない時代、アングラとか小劇場とか呼ばれていた。ホール以外 は中小の空間はほとんど無く、そこに自由な表現の実験場としてスター トした。当初は日本語のロック、最も過激だった美術、舞踏、演劇など を中心に、まだ希有だった詩の朗読や落語なども。70年代中頃店 名を「アピア」と改める。高度経済成長と共にバンドブーム が 押しよせる中、逆にアコースティックな音楽や個の表現に注目し、弾き 語りの殿堂との異名を得る。静かな学生の街だった渋谷も様変わりし、 40年を機に幕引き、新たなる40年を目指し腰を据えた隠れ家とし て現在の目黒碑文谷の地に移転し店名を「アピア40」に改名。

【コンセプト】
ミュージシャンの多様な表現に対応する為に音質・照明共にこだわり、 音響機材は独自開発のアンプ/プリアンプ/スピーカーユ ニット6wayバイアンプ方式で他に類を見ない位相特性を実現し、 地下ながら内側に1部屋を浮かして完全防音空間を設置、理想的 なアンビエンスをコントロール、ミュージシャンに演奏しやすい贅沢な 音場を実現する。また、レコーディングスタジオとしても使用されてい る。照明は約60台を常設、音楽以外の舞踊・演劇にも対応。特に ミュージシャンの存在感を美しくパワフルに照らす出すことで定評を得 る。

【ジャンル】
音楽を中心に舞踊・演劇・ポエトリーリーディングなども可。音楽の中 ではアコースティックを追求し、フォークからロックまで、ステージ幅 も広く多人数の編成も可能、ソロからバンドまで多岐に渡る。 ジャズやインストルメンタルの音楽も増えつつある。シンガー・ソン グ・ライターが最も多く、個性的な人々が多く集まってくる場である。 40数年の歴史なので様々なジャンルに、多くの著名なアーティストを送 り出している。

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