鍵盤上を舞うように脈動する田中眞紀子の唄世界。
現実と虚構の狭間でそれは始まる。ドラマは愛と血と生を語りながら、未明の劇場へとあなたを誘う。

田中眞紀子 profile

ピアノ&KEY BOADの弾き語りで活躍中のシンガー・ソング・ライター田中眞紀子のOFFICIAL SITE。
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 私は戦後60年で一番幸福な娘時代を過ごした世代だろう。最も裕福で最も怠惰な。我々の前の世代の女性たちが、必死に身を挺して勝ち取った権利の数々を、我々はただの選択肢の一つに成り下げた。蝶よ花よと外へ外へ贅沢という虚構を謳歌する者達の一方で、四角い画面の虚構の内にのめり込む者達はマイナーからメジャーに進出する。そんな時、1988年宮崎勤の事件は起こった。少しでも自らを省みる気概のある者ならば皆、自分の中に彼を見い出したものだ。彼になっていく過程を想像できたのだ。幼い命をいくつも犠牲にしてあの事件は、簡単に虚構に埋没してしまう人間の性癖に警鐘を鳴らしたはずなのである。しかし時は流れ、実態は虚構に取って代わられようとしている。もう若さを言い訳にできない大人になってしまった我々の世代は、子供達がどんな無惨な事件を起こそうとも、それを責める権利など全くない。まず反省すべきは大人達なのだ。このアルバムを世に出すということは私の懺悔の表明に他ならない。
                  田 中 眞 紀 子

<ピアノのお稽古時代>
4才 国立音楽大学付属幼稚園にてピアノの指導を受け始める。

7才  桐朋音楽大学付属子供のための音楽教室に入会。
  中学2年までソルフェージュ、聴音、楽典のレッスンを受ける。

 要するに本人の意志とは関係なく、最初から音大受験突破を目指し英才教育を受けていた訳だが、中学に入った頃から諸事情により本人に乗り気がなくなり、本人に乗り気がないのに突破できるような甘いものではない為、音大受験は断念。

 ちょうどその頃、同級生の帰国子女が学校の音楽室で物凄くかっこいいピアノを弾いていて、こんなピアノの世界もあるのかと衝撃を受ける。それはなんだとその子に聞いたらシカゴだと言っていた。後年シカゴのサタディ・イン・ザ・パークという曲と判明。当時は地名かと思ったりしたが、そういう類のピアノを弾きたいなどと言い出したら、下品とか言われて軽蔑されるような環境にいた為、勇気なくそれも断念。

 その後高校1年まで、ピアノのレッスンは続けたが、次第に興味がなくなったのでやめ、20才の頃ジャズピアノを習ってみたが、何を弾いているのか皆目わからず三ヶ月で断念。ピアノのお稽古はすべて打ち切った。

 ただ、このお稽古時代の蓄積が私の今の音楽の礎となっている事は、腹立たしいが認めざるを得ない。

<映画・演劇鑑賞時代>

 ピアノのレッスンをやめてから、付属校に意味もなくズルズルと通いながら、はまっていったのは映画。年を重ねるごとに、小遣いに余裕が出るにつれ映画熱はヒートアップ。年に100~150本の映画を観る生活が10年以上続く。就職後、芝居好きの同僚の感化を受けてしまい、映画の上に50~100本の芝居小屋通い。ほぼ給料のすべてを鑑賞生活に注ぎ込んでいた。特に関心が強かったのが、ベトナム反戦映画とミュージカル。今の私の音楽がミュージカル調だったり戦争ものが多かったりするのは、この頃の影響と思われる。
 当時、アメリカはすごいと思っていた。「ディア・ハンター」辺りからベトナム反戦映画は最盛期で、自分の国の恥部をあれだけ堂々とさらして世に問おうとする姿勢の潔さに感銘を受けたものだ。作品が描こうとする人間の深淵は年々容赦がなくなっていき、映画から目が離せない時代だった。
 芝居は小劇場全盛の頃。主要な俳優や演出家が私と同年代だったのが惹かれた要因だろう。劇団四季などミュージカル好きなのは、さすがに音楽をやっていたから。

 これらの鑑賞を通して確信していたのは、私が感動する作品は必ずその作者が血を流しているという事だった。自分が人前で作品を発表する際、だから何らかの自虐感が不可欠であるという直感があったのは、この時代の蓄積から来るものだろう。

 今をときめく2時間ドラマの帝王、船越栄一郎氏が率いる劇団マガジンと出会う。彼がなぜ連ドラに出ず単発ドラマばかりやっていたかというと、この劇団を維持する為だったという事を私は知っていたりする。小劇場ミュージカル劇団だが、まさに私と同年代の劇団員が、言っちゃ悪いがあまり上手くない歌をビービー泣きながらガーガーがなっていた。それをボロボロ泣きながら観ていて、私はひたすら悔しいと思っていたのだ。いい年をして彼らがビービーガーガーやっている事が羨ましくて仕方がなかったのである。私も客席で受けているばかりでなく、あちら側に立ちたいと思った。しかし長年の鑑賞生活で培った鑑賞眼から、踊る私だの演じる私だのを許せるはずはなく、ただ歌う位なら幼年期の音楽力を駆使すれば何とかなるのではないか? などという妄想を膨らませていたのであっ
た。実は今、その妄想が現実化しているのだ。恐ろしいことに!
 その妄想とは別に、当時の職場が非常にストレスの溜まるところで、そのストレスを解消する為に歌でも歌うかという事になり、芝居仲間とヴォーカル教室に通い始めた。なぜヴォーカル教室だったかといえば、カラオケ教室より本格的っぽくてかっこいいというだけの理由であった。

平成元年  ヴォーカル教室入会 

平成2年  発表会で、下手でもいいから自分達で演奏して歌おうという事になり、思いがけず二度と弾くつもりのなかったピアノの蓋を開ける。
 非常に遅ればせながらキャロル・キングと出会う。こんなかっこいいピアノがあるのかと驚愕。担当講師から、歌う人は楽器が弾けた方が絶対得だと勧められ、キャロル・キングのコピーからピアノの弾き語りを始める。

平成3年  バンドを組みピアノとコーラスを担当。ライブ活動開始。活動の中心となったのが渋谷アピア。

平成5年  バンドを解散し、オリジナル曲でピアノの弾き語りのソロ活動開始。渋谷アピア中心にライブ活動。

平成6年  プロのミュージシャンについて、ヴォーカルだけでなく作曲法やアレンジも含め指導を受ける。ピアノでのバンドトレーニングも受け、他の生徒のバックでライブ出演多数。江古田バディ等。
座右の銘を得る。「音楽は今やってる奴の今やってる音を信用しろ!」

平成7年  病気治療の為、すべての音楽活動を中断。

平成8年 ソロライブ活動再開。渋谷アピア、青い部屋等。

平成9年  ジャズヴォーカリストについて、スタンダード曲の歌唱指導及びヴォイストレーニングを三年間受ける。
 初めて女性の指導を受けて、「女の子は可愛くなきゃ駄目!」と叱られる。
 既に女の子ではなかったが、何となく男っぽくするのがかっこいいと思い込んでいたので、女らしいとかっこいいは同居するのだと気付き、目から鱗が落ちた。

平成11年 名古屋在住のブルースシンガー金沢栄東氏と共演。以来、氏が東京にてライブを行う度にセッション(ピアノ)で参加。

平成14年 沖縄在住のミュージシャン佐渡山豊氏とピアノ・コーラスで共演(大久保アートコート)。

平成15年 労音お茶の水センターにてワンマンライブ。

平成16年 チバ大三氏主催の独唱パンク出演。以後年に三回ほど出演。日本中に猛者がいる事を知らされ、各人から影響を受ける。私はさほど変な方ではない。
 労音お茶の水センターにてワンマンライブ。
 佐渡山豊氏と共演(渋谷アピア・労音お茶の水センター)

平成17年 佐渡山豊氏と共演(京都会館・大阪ピースクラブ・労音お茶の水センター)
CD録音。

平成18年 ファーストアルバム「未明」発表。
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田中眞紀子LIVE
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